プロローグ

 函館の長い波止場を、一人の男の子が懸命に走っていた。銅鑼の音が、八甲田丸の出航を告げる。
 男の子の目が宙をさまよい、甲板で色とりどりのテープを投げる人々の中に友の姿を捜し求める。
 船から、下を見おろす友をやっとの思いで見つけだしたとき、その脚が勢い余ってコンクリートにつまづいた。
「み……岬……岬……みさきぃーっ!」
 男の子は叫んだ。
 その時、風に乗って、彼の名を呼ぶ友の声が、聞こえたような気が、した。


 一九八八年三月一三日。
 函館の街は観光客でごった返していた。
 今日この日に、一世紀の永きに渡って北海道と本州青森とを結んでいた青函連絡船は、その歴史を閉じる。その間に、幾多のドラマがこの駅を通り過ぎて行った。
 北海道の人間にとって、この連絡船はそれぞれの思い出を秘めた掛替えの無いものだった。
 その姿も、今日の午後五時出航の八甲田丸で見納めとなる。最後の青函連絡船に乗ろうと、また、その姿を最後に一目見ようと人々は函館に集う。
 3月と言えど、北海道では春はまだまだ遠い。身を切るような風の中、雪さえちらつく夕暮れ時に、松山光は函館駅に降り立った。
 彼は、この最後の青函連絡船に乗って、北海道を離れる。以前からの、小泉女史の申し出を受け入れて、東邦学園高等部に入学するのだ。いろいろと考えてみたが、結局それが一番いいような気がした。
 翼のブラジル行きが決定した時から、何もかも全てが、これからは今までと同じようにはいかないのだと気が付き始めていた。
 小学生の時から慣れ親しんで来たメンバーと毎年予選を勝ち抜いて全国大会に出場し、翼や日向達と闘ってきた。 
 いつまでもいつまでもそれが続くのだと、それが当り前なのだと知らず知らずの内に思っていたけれど。夏が終われば、富良野の皆はそれぞれの道を行き、バラバラになる。常に前を走っていた翼はブラジルへ行き、プロをめざす。
 それならば、自分は?
 自分、松山光はこれからどうするのだろう。
 自分自身の夢は?
 誰にも負けないくらい――何よりも、自分に負けないくらい強くなりたかった。そして、西ドイツを打ち負かしたあのメンバーで、自分達の手で、ワールドカップを掴んでみせる。
 そのためには、まず東邦で強い連中に揉まれるのがいい。そう思ったのだ。
 十五年間暮らしてきた北海道。今度はいつ戻って来られるのかわからない。これは、さまざまな意味での卒業だった。
 だから。せめて、この最後の連絡船で北海道を離れたかったのだ。
 函館に住む祖父に無理を言って切符を取ってもらい、飛行機をキャンセルした。それを聞いて、日向はさんざん文句を言ったけれど。
 『なにぃ ? 1日遅れるだと?てめぇ、一三日にこっちに着くっつったじゃねぇか!こっちの都合も考えやがれ!』
 昨夜の電話での日向の声を思い出して、松山は笑いをこらえた。受話器の向こうの日向の様子が、まざまざと浮かび上がってきたからだ。
 結局は、若島津が何とか日向を言いくるめてくれたので事なきを得たのだが。
 実際東邦に言ったら、毎日退屈する暇もなくなることだろう。尤も、松山が来ると言うことで、いままで日向が起こしていた騒ぎが倍になるだろうと、若島津以下東邦イレブンが思っている――あるいは、密かにおもしろがっている――と言うことを、幸福な松山は全く知る由もないのであった。
 『さよなら青函連絡船』の垂れ幕をくぐって、松山は駅に入った。
 今まで何度となくこの駅を訪れた松山だったが、近頃はずいぶん御無沙汰していた。
 “国鉄”の文字が“JR”に変わり、駅も幾分か以前よりも汚れが目だっている。この前にここに来たのは、もう5年も前の事だ。
 その日も、今日のように粉雪のちらつく寒い日だった。転校して行く岬を追って、松山は一人でここまでやってきたのである。
 風をひいて前日から寝込んでいた松山は、その日の朝になって岬の転校を知った。
『昨日岬君が来てくれたとき、光、寝てたじゃないの』
 何故教えてくれなかったのかと詰め寄る松山に、母はにべもなく言ったものだった。松山は貯金箱を壊し、親の目を盗んで家を抜け出し電車に乗った。祖父の家に遊びに行くので慣れているとは言え、小学生の身でたった一人で行くには、富良野から函館はあまりにも遠かった。
 それでも、岬に最後の別れをしたい一心で松山は函館に急いだ。やっとたどり着いたときには、船は出航間際で、銅鑼の音が辺りに鳴り響いていた。
 最後に岬が『松山!』と叫んだような気がしたのだが、それも定かではない。
 果してあの時、岬は松山に気付いていただろうか。それは、読売ランドで逢ったときも、フランスでの遠征の時も聞きそびれていたけれど、心の奥底でずっと気になっていたことだった。


 松山は船室には入らず、甲板に出た。青森に着くまで約4時間。それまでここでこうやって、2度と見ることの無い連絡船からの景色を見ているのも悪くない。
 と、その時。不意に大きく船が横に揺れた。
「わっ!」
 松山はバランスを崩して床につんのめった。
「いって !」
 壁に思いきりぶつけた頭に手をやって、松山は毒づいた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
 あどけない声とともに、松山の目の前に小さな手が差し出された。
「み……!」
 『岬』と言いかけて、松山は言葉を飲み下した。心配そうに松山を見おろしている可愛い顔は、昔の――富良野時代の岬太郎に瓜二つだったのだ。
 だが、それが他人のそら似であることは、松山も重々承知していた。岬は今フランスにいるし、何より5年分ちゃんと成長しているのだから。
「悪いな」
 自分で立ち上がることは簡単だったが、敢えて松山はそう言うと、男の子の手に自分の手を重ねた。
「ったく。まだ出航もしてない内から揺れんだもんな」
 松山は照れかくしに言った。
「え?」
 男の子はきょとんとした顔で言った。
「揺れたりなんてしたかなぁ。僕、気付かなかった」


「ほらよ」
 松山は自動販売機で買った缶ジュースを男の子に放ってよこした。
「ありがとう。お兄ちゃん」
 男の子はにっこりと笑って言った。そんな風に人懐っこい笑顔を浮かべると、その子はますます岬に似て見えた。
「お兄ちゃん、旅行?」
 男の子は言った。
「いいや。俺は4月から東京の学校に行くんだ」
 松山は答えた。
「じゃ、僕と同じだね」
 男の子は言った。デッキの手すりに体をもたせかけ、組んだ腕の上に頤を乗せる。
「北海道はいいところだね。僕、大好きだったよ。もっとここにいたかったけど……」
 男の子は言葉を切った。
「お父さんの仕事の都合?」
 松山は聞いた。
「うん、そう。だからしかたないんだ。でも、僕は絶対に忘れないよ。ここであったいろんな事も、友達の事も」
 男の子は、きゅっ、と唇をかんだ。
 ――ひょっとして、こいつ……。
 松山は不意に思った。
「――あのさ。お前、ひょっとして、誰かが来んのを待ってんじゃねえか?」
 思ったことをそのまま、松山は口に出していた。
 男の子は大きな目をますます大きく見開いて松山の顔を見ると、かすかにうなづいてみせた。
「そっか……」
 そのまま二人の間に沈黙が流れたが、ややあって、男の子がぽつりと呟いた。
「友達……一番大切な友達だよ。すっごくいい奴で……でも来ない。わかってるんだ」
「何でだよ!」
 松山は言った。
「僕のいたところ、ここから凄く遠いんだ。一人じゃ来れっこないし、あいつの家、今とっても忙しいんだ。それに、学校さぼってまで来れないよ」
 そう言うと、男の子はため息をついた。
「こういう時って、何か、不安でやだな。僕なんかいなくたって、あいつらの生活は変わんないし、そうやってくうちに皆、僕の事忘れちゃって、思い出しもしなくなるんだ」
 松山はまじまじと、この岬によく似た男の子を見た。
 小さな体が、人恋しさに揺れている。
 いつも、笑っていた岬。転校続きで各地を転々としていても明るくて皆――富良野の連中や、翼や、日向達――から好かれていた岬。辛いとか、淋しいなんて一言だって言ったことはなかった。
 だけど、その笑顔の下で、今目の前にいるこの子のような不安が渦巻いていなかったなどと、いったい誰が言えるだろう。松山はこの子を通して、岬の寂しさを垣間みたような気がした。
 しかし――。
「そんなこと、ねえよ!」
 松山は思わず叫んでいた。
「そんなこと言っちゃ、駄目だ。たとえ離れたって、忘れたりするもんか!逢えなくたって、遠くにいたって友達だって事は変わんねえよ。お前、そいつの事、大切な友達だって言ったろ?そいつ、きっと来るって。一人でだって、どんなに遠くたって!俺も……」
 松山は、そこで言い淀んだ。
「俺の友達にも、遠いところからここまで、大事な友達を見送るために学校さぼって来た奴がいるんだ。お前の友達だってもしかして、今、駅の改札くぐってこっちに向かって走ってるのかも知れないじゃねぇか!きっとそうだよ。な?だから……」
 松山は男の子の髪をくしゃくしゃにした。
――そうさ。忘れるもんか。富良野の皆の事も、フランスの岬も、ブラジルに行っちまう翼も、アメリカにいる藤沢も、忘れない。ずっとずっと。
「だから、そんなこと、言うなよ」
 松山は言った。
「ありがとう」
 男の子は、泣きだしそうな笑顔を、松山に向けた。
「――僕が待ってる友達、お兄ちゃんに似てるよ。いつも一生懸命で、絶対、諦めたりしないんだ。僕、あんな風になりたかった。――ねえ、その、ここまで友達を見送りに来たっての、ほんとはお兄ちゃんのことじゃないの?」
 男の子は言った。
「え……と」
 松山が、照れて答えられずにいると、二人の声をかき消すように大きく、出航の銅鑼が鳴った。
「おい、船が出るからもう中に入ってなさい」
 誰かが男の子に声をかけた。それに振り向いた松山は、息を飲んだ。
 船室のドアから半身を出してこちらを見やっているのは、岬太郎の父親、岬一郎その人だったのである。
 その時、松山は気付いた。甲板から見おろす風景が、先刻まで――男の子に出会う前とは様子が異なっていることに。
 『さよなら青函連絡船』の横断幕もなく、船内のカメラを抱えた人々の姿もなく、見送る人たちも、目に見えて少なくなっていた。
 『学校さぼってまで来れないよ』
 男の子の先刻の言葉が、松山の耳に蘇った。何故気付かなかったのだろう。学校をさぼる必要なんて、無いはずだ。今日は日曜日なのだから。
「あれ。あそこにいるの、お前の父さんか?」
 松山は震える声で男の子に言った。
 しかし、男の子は松山の質問など聞いてはいなかった。その目は船着場のある一点に、真っ直ぐに注がれている。
「来た……!」
 男の子は叫んだ。
 その時、確かに松山は見たのだ。
 息を切らして、夕暮れの雪まじりの風が吹きすさぶ波止場を駆けて来る、5年前の松山自身の姿を。
「まつやまーっ!」
 男の子が松山の名を叫ぶ。
 そしてその時、大きく船が、揺れた。



 エピローグ

 あれは一体何だったのだろうか。
 松山が再び我に帰ったときにはもう、あの男の子の姿は何処にもなかった。
 船内にはカメラを持った観光客が歩き回り、船はとっくに港を出ていた。そして、手にしたまま蓋も開けていなかった缶ジュースの底には、一九八三年の日付が刻まれていた。
 夢ではない。松山はあの時確かに、5年前の世界にいたのだ。そして、岬と話をしてきたのだ。
 『友達だよ。いちばん大切な』
 岬はそう言ってた。そして、松山を待っていてくれて――あの日、松山が聞いたと思った声。あれはやはりそら耳などではなかったのだ。岬は、彼を追ってきた松山を、ちゃんと見つけてくれていたのだ。
 不思議な出来事だったが、あれは確かに現実。
 松山は周囲をそっと見渡した。あれは、最後の航海に赴く連絡船の見せてくれた魔法だったのかも知れない。
「ありがとよ」
 松山は呟いた。
 船はゆっくりと海原を進んで行く。辺りはだんだんと暗くなって行く。そうして、青森の街の灯が見えるころ、長く長く尾をひいて連絡船最後の汽笛が、鳴る。
 松山の中学生活の終わりを告げる、最後の汽笛(ラスト・ホイッスル)が―――――。

                                              《FINE》 



<後書き>
 大昔に書いた話です。高校の修学旅行で青函連絡船に乗った身としては、当時の青函連絡船廃止のニュースはショックでした(その後、観光船として復活したようですが)。松山くんが東邦へ行くというのは最初から決めてたので、このニュースを聞いて、松山くんの上京と青函連絡船を絡めようと思い立ったのでした。
 北海道のへそ富良野にすむ松山くんと青函連絡船が関係あるとしたら、どんなシチュエーションなんだろうなって考えると、自然に岬くんがでてきました。
 ネットではルビが振れないので最後の行がちょっと間抜けなんですけれども(笑)汽笛も、英語でホイッスルなんですよ。青函連絡船最後の汽笛と、松山くんの中学時代の終わりを象徴する最後のホイッスルをかけてみました。

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