灼けるように熱いアスファルトの、長い長い坂を上ると、病院が見えてくる。木立の向こうの、白い建物がまぶしくて、アスカは目を細めた。
「あんた、しょっちゅうこの坂登ってんの?」
 隣を歩く腺の細い少女にアスカは言った。
 大体、どうして病院は坂の上にあることが多いのだろう。病人や怪我人に、こんなだらだらとした坂を登らせるなんて、どうかしてる。絶対的に、デリカシーが不足してるのだ。
「ああもう、汗かいちゃったじゃない!」
 額から流れる汗を、アスカはぐい、と拳で拭った。日本の夏は高温多湿で、ドイツに生まれ育ったアスカにはかなりきつい。木陰の下にいてさえ、じっとりとにじんでくる汗が鬱陶しい。
 ばさり、と長い髪をさばくと、汗の滴が光を反射してきらめく。
 アスカの瞳に、隣の少女の白い項が映った。
 この暑さの中で、汗さえにじませない、人形じみた、白い白い肌。
 夏の陽射しを、全て吸収してなお白い、綾波レイ。
 彼女の肌が、日に焼けることなどあるのだろうか?
 色白ならば、なおのこと、日焼けしやすいものだ。白色人種の血を引くアスカも例外ではなく、かなりきつめの日焼け止めを塗っていてさえ、真っ赤な火ぶくれが出来てしまうことは良くある。
 それなのに。アスカよりも白いレイが、全く日に焼けないのはどういうわけなのだろう。その白さは、まるで人ではないかのように見える。
 蝉の声が喧しく響く往来で、アスカは一瞬足を止めた。
 何なのだろう、この違和感は。
「――あんた、帽子くらいかぶんなさいよ! もう、返事くらいしたらっ 」
 違和感を振り払うように叫んだアスカに、レイが振り向いた。
「――どうして?」
「どうして、って、話しかけられたら返事くらい……」
 何故、こんなにイライラするのだろう? 
 アスカは、レイの、赤い、血の色を透かした瞳を見る。
 最初から、彼女はそうだったのだ。任務でなければ、仲良くする必要もないと――どうして、そこまで自分を殺せるのか。そんなのは、アスカは真っ平だった。自分らしく生きてゆく――――自分自身のために――エヴァに乗るのはその証であり、それ以外の何物でもない。
 けれど。彼女は――綾波レイは、何のためにエヴァに乗るのだろう。
 他人を映さない、瞳で。
(――でも、少しは進歩したのかしらね?)
 どんなに冷たくあしらわれても、いや、それだからこそ、アスカはレイが気になった。その瞳を、こっちに振り向かせたい。だから、こうして無理矢理、病院通いをするレイについてきたのだけれど。
 取りあえず、おとなしく隣を歩くくらいには、レイはアスカに慣れてきたのだろうか。――――――――それでも。
(シンジに負けてる、てのがアタマくるのよねっ)
 シンジには笑うくせに――そう思うと、じぶんでもおかしくなるくらい苛立ちを覚えるのだ。
「あのさぁ。ケガ、まだひどいの?」
 答えが返らないことを前提にして、アスカはレイに話しかける。
 レイの腕には、まだ白い包帯が巻かれている。最初は、全身が、痛々しく包帯に覆われていたのだと、シンジは言っていた。そのせいなのか、レイ、と言えばアスカは白い包帯と紅の瞳を思い出すのだ。
「今日は、検査だけだから」
 レイが言った。つまりは、怪我自体はもう良い、と言うことか。
 レイと話すときは、奥の奥まで考えなくてはならない。少ない言葉の中に隠されたメッセージを、寡黙なレイの本当の気持ちを、どうにかして読みとりたかった。


 病院の中は、外とはうって変わった涼しさだった。しかし、人工的に冷却された空気は、不必要に冷たくて、刺々しい。
「綾波レイさん」
 待たされることなく、レイの名が呼ばれた。無言のまま立ち上がると、レイは廊下の奥に消えていく。
 待合い室に、アスカは一人残された。
 病院の白い壁は、アスカに遠い過去の記憶を思い出させる。
 消毒液の、鼻を突く匂い。生気のない人々。
 こんなに、待合い室の中は人の声やアナウンスでざわめいているのに、キン、と耳鳴りがするほどの静寂を感じる。
 ――――――ゾッ、とした。
 思わず、アスカは堅い長椅子から立ち上がっていた。これ以上、ここにはいられない。レイが戻ってくるまで、何処か別の場所で待っていよう。
 異様に涼しい病棟を抜け、アスカは中庭へ出た。
 蒸し暑い――――けれど、あの不快な冷たさではなく、自然の涼風が心地よく頬を撫でてゆく。
(気持ちいい……)
 中庭に生い茂る木々の生み出す清浄な空気。森林浴の効用、なんていうものが、アスカの脳裏をよぎる。
(あ――――れ?)
 木立の向こうに、見慣れたジャージ姿を目にして、アスカは目を凝らした。
(三馬鹿トリオの、鈴原じゃない!)
 あのトウジが、病院にいるなんて。一体、どういう天変地異の前触れだろう。およそ、これほど似つかわしくない取り合わせというものも珍しい。
(まさか、あいつが病気……とかっていうんじゃないだろうから……)
 それならば――――見舞いか?
「ねぇ……す……」
 言いかけた言葉が、舌の上で凍り付いた。
 木に背を預け、誰かを見ているトウジ。
(う……そ……)
 それは、今までに一度も見たことがない、優しい眼差しだった。いつくしむような、いとおしむような――――とても、大切な者にだけ向けられるまなざし。
 その瞳を見た瞬間、アスカの胸がずきん、と痛んだ。
 まなざしの向こうには、車椅子の幼い少女の姿があった。
(そう言えば……鈴原の妹って……)
 ミサトから聞いたことがある。
(鈴原……)
 いたたまれなくなって、アスカは身を翻す。
(あいつ……あんな、目するなんて……)
 あんなトウジは、知らない。アスカの知ってるトウジは、やかましくて賑やかで、一人でボケと突っ込みやったり、シンジを巻き込んでバカやったり――――その筈だったのに。
(どうしよう……こんなのって……)
 不意打ちだ。
「きゃ……っ」
 誰かの手が、肩におかれた。
 振り向くと、レイが立っていた。
「……なんだ……あんただったの。もぉ、びっくりさせないでよねぇっ」
 そのままへなへなとアスカは地面にへたり込む。
(あつ……い)
 陽射しなんかよりも、もっともっと熱いものにうたれてしまった。
 あつくてあつくて、死んでしまいそう。
「検査、終わったわ」
 抑揚のない声に、アスカは顔を上げる。
 そういえば、何故レイがここにいるのだろう。
(探しに……来た?)
 ゆっくりとアスカは立ち上がった。
「帰ろっか」
スカートをぱたぱたとはたいて、アスカは言った。無言で、レイがうなずく。
 季節が変わってゆくように、ゆっくりと何かが変わり始めている、
 シンクロ値を上げてゆくシンジ。
 心を開いてきたレイ。
 そして、新しい想いが燃え出すのを自覚した自分。
 ――――――――けれど、それが自分を何処に導いてゆくのか、アスカはまだ知らない。


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